私たちは今、終わりの日を生きています。主の再臨の預言は基本的には成就し、何千人もの敬虔な信者が主イエスの再臨を熱烈に待ち望んでいます。しかし同時に東方閃電は、主イエスは終わりの日の受肉において全能神として既に再臨しており、神の家から始まる裁きの働きを既に行なっているという証を告知しています。東方閃電の現れは宗教界全体と心から神を信じ真理に飢え渇く人々を揺るがせました。全能神の言葉と働きを求め、調べることを通して、全能神が主イエスの再臨であることを多くの人が確認し、一人また一人と全能神の御前に来ています。このことは宗教界の牧師や長老、中国共産党政府をパニックに陥れました。東方閃電を抑圧、禁止するために、宗教界の牧師や長老と中国共産党政権は共謀し、数々の噂を作り上げ、東方閃電を異端と呼んで激しく非難、中傷を行い、終わりの日の全能神の出現と働きを求め調べたいと望む真摯な信者に妨害を加えて嫌がらせをするためにできる限りのことをしています。過去においてユダヤ人の宗教界はローマ政府と同盟関係を結びましたが、主イエスの残酷な迫害という歴史的悲劇が繰り返されています。東方閃電が主イエスの再臨であるかどうか、そしてそれが神の働きであるかどうかについてはさまざまな説明や異なる見解があります。否定や糾弾をする宗教界の牧師や長老に続く人もいますが、東方閃電は聖書の「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)という主イエスの預言に関係があり、それは終わりの日の人の子の出現にも関係すると信じる人もいます。では東方閃電は正確にはどこから来たもので、それは神の働きなのでしょうか。どのような奥義を有しているのでしょうか。
神の働きを理解するすべての人々は、その働きは常に新しいものであり、決して進歩を止めないことを知っています。ちょうど、神が霊を通して働き、人類の地上の生活を導く律法を与えた律法の時代のようにです。そして恵みの時代には、神は受肉し人の子として現れ、働きを行い、病人を癒し、悪霊を追放し、多くの奇跡的な行いをし、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)という悔い改めの道を示し、その後十字架につけられ、全人類を贖うという働きを完成させました。しかし人々は神の働きを知らず、傲慢で自己中心的なサタン的な本性をもち、非常に独善的で頑固で強情であり、ついには真理に飽き、真理を憎むほどに観念と想像に固執しているため、神は新たな働きを行うたびに、宗教界と権力者層の野蛮な冒涜、迫害および非難に苦しまなければならないのです。神の新しい働きを宣べ伝え証言する人々は、あらゆる形の罪状と不名誉な呼称のレッテルを貼られるだけでなく、残酷な迫害を受ける場合もあります。この事実は新約聖書に記録されています。守ることのできない律法を破ったために罰を受ける危険から人類を救うため、神は主イエスの姿で受肉し、恵みの時代に贖いの働きを始めました。主イエスがユダヤで働きを行っていた時、多くの奇跡的な業を行ない、病人を癒し、悪霊を追い払い、豊かな恵みを人類に授け、数多くの真理を表現しました。このことは主イエスが神自身であり、イスラエル人が長く待ち望んでいたメシアであることの証明として十分です。しかしユダヤ教の祭司長、律法学者、そしてパリサイ人は頑固に宗教的な観念に固執し、イエスこそ彼らが長い間待ち望んでいたメシアであると信じることをひたすら拒みました。それどころか、聖書のいたるところからイエスに反対する根拠として使える記述を探し出し、主イエスの働きを異端扱いし(使徒24:14参照)、イエス自身を「ナザレ人らの異端のかしら」と呼んで(使徒24:5参照)中傷、非難、断罪したのです。彼らはユダヤ人を惑わし煽り立てて主イエスを非難させたうえ、ローマ政府と同盟して彼を十字架上で処刑しました。それゆえ、ユダヤ民族全体が神の性質に背き、かつてない破壊がもたらされました。それゆえ、宗教界と権力者たちから非難され抵抗されることは必ずしも間違っているわけではなく、それは神から来たことであり、神の働きである可能性は非常に高いと言えます。ですから、何かが神の働きであるかどうかを調べる際は、宗教界と権力者たちがそれを認め受け入れているかどうかに基づいて判断を下すことはできません。律法の時代と恵みの時代に行われたあらゆる働きを見れば、何かが神の働きであるかどうかは、それが表現しているものが真理であるかどうか、現時点でそれが緊急に人類に必要とされるものであるかどうか、それが聖霊の働きであるかどうかによりおもに決まります。このようにして初めて、それが神の働きであるかどうかを本質的に見分けることができるのです。これが最も重要です。
終わりの日には、人類はますます深く堕落していきます。人間は完全にそのサタンのような堕落した本性の支配下にあり、無意識のうちにしばしば罪を犯し、昼間に罪を犯しては夜になればざんげするような生活を送り、耐え難い痛みの中に生きています。人類はどんどん神から離れ、救いを得るという望みはさらに不確かになっています。罪を犯しては告白し、告白しては罪を犯すような状況から人間を救うために、そして人間がそのサタン的な堕落した性質と罪深い束縛と足かせを徹底的に捨て去り、清められ、神の救いを得ることができるように、神は真理を表し、堕落した人類を裁くために再び受肉され、完全に人類を清めて救う新しい働きを行われます。今回、神は世界の東方の中国で受肉され、現れ、働かれます。神は恵みの時代を締めくくり、神の国の時代を始められました。神はかつてないほど高く豊かな真理をもたらし、世界の創造以来の神のすべての働きの奥義を明らかにし、人間を清めて救うであろうすべての真理を人間に授けられました。終わりの日における全能神の働きを受け入れる人々は、全能神が発する言葉から多くの真理を理解します。彼らには、終わりの日に真理を表す全能神が真に主イエスの再臨であることがはっきりと分かります。彼らは自身の堕落した性質と罪の根本原因を明確に知るようになり、サタン的で堕落した性質を解決する道を見つけました。彼らの心は明るく、透き通っています。神の言葉の裁き、刑罰、試練、そして精錬を経験することによって、彼らのいのちの性質は絶えず変化しています。彼らには救いの希望があり、神の良き聖なる本質と神の義と不可侵の性質について真の認識を得ています。彼らは、神がもつものと神であるもの、例えば神の全能性、知恵、権威などについて実践的な理解と認識を得ています。彼らは皆、神への信仰がもはや空でも漠然としたものでもなく、むしろますます現実的になっていくことを認識できます。彼らは親しく愛情のある存在として神を本当に体験し、それゆえに神を畏れる心が生まれ、神に真に従順し神を思うようになります。そして彼らは皆、終わりの日の全能神の裁きの働きは確かに人間を清め、救うことを明瞭に理解しています。終わりの日に、全能神の裁きの働きと清めの働きの時は短く、その速度は稲妻のように速いのです。わずか二十年あまりの短期間に、神の国の福音は中国本土にくまなく広がり、勝利者の集団をつくり出し、今ではその福音は急速に世界のあらゆる方角のあらゆる国々へと広まっています。これはまさに主イエスの「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)という預言の成就です。それにもかかわらず、宗教界の牧師や長老は頑なに宗教的な観念に固執し、人間の観念と相反する神の新しい働きに直面すると、それを求めたり調べたりしないだけでなく、聖書を振りかざして神に歯向かうのに利用できる間違いを探し、終わりの日の全能神の働きを無謀にも裁き、非難して、全能神教会を異端の「東方閃電派」であるとして中傷しているのです。彼らのふるまいや行いは、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人が主イエスを非難したときと全く同じです。彼らが終わりの日の神の働きを批判、攻撃して、神の足跡を調べ、追い求め、神の働きに従う人々を妨害するなら、彼らはキリストを否定し糾弾した現代のパリサイ人ということになりませんか。彼らの行動の本質は、真理を憎み、聖霊を冒とくするものではありませんか。全能神の現れと働きへの宗教界の指導者の猛烈な非難もまた、主イエスが再臨を預言した時の言葉の完全なる成就です。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書17章24-25節)。
もし、全能神が言葉を語らず、奥義を明らかにしなかったならば、私たちは決して「いなずまが東から西にひらめき渡る」という預言の意味を真に理解することは決してないでしょう。 全能神は言われます。「すべての人々が注意を払い、すべてのものが再生され復活し、あらゆる人がためらわずに神に服従し、神の重荷の重い責任を負おうとするとき、東から稲妻が現れ、東から西を照らし、この光の到来で地のすべてを畏怖させるのである。この瞬間、神は再び神の新しい生活を始める。……すなわち、東の世界では、神自身が証しされ始める時から、神が働きを始め、神性が地上で主権を発揮し始めるまでである。これは東の稲妻の輝く矢であり、宇宙全体をいつも照らしていた。世の国々がキリストの国になる時は、宇宙全体が照らされる時である。東の稲妻が現れ、受肉した神が働きを始め、さらには神性の中で直接語るのは今である。神が地上で語り始めるときは、東の稲妻が現れるときと言える。正確に言えば、生ける水が玉座から流れ、玉座から発言が始まるのは、七つの霊の発言が正式に始まるときである。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十二章」より)「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。…なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より)全能神の言葉から、終わりの日の神の働きと言葉は東方から閃く稲妻だということが分かります。「稲妻」は偉大な光であり、神の言葉、終わりの日の神の裁きと刑罰の道です。「東から」とは中国から現れることを意味し、「西へひらめき渡る」は西方に到達することを意味します。最後に、「人の子も現れるであろう」は、神が受肉し、まず自身を顕し、その働きを東方の中国で始められることを指しています。そこで神は真に神を知る人々の集団を形成します。彼らは黙示録で預言されている勝利者たちです。そしてこの人々を通して、終わりの日の福音はすべての人々が終わりの日の神の救いを受けられるよう、西方にまで広がるのです。このことは今では達成され、誰でも分かる事実です。東方の稲妻(つまり中国における終わりの日の神の裁きの働き)によって私たちは神が人間に授けてくださるすべての愛と救いを受けられるようになり、神の真の顔を知ることができるようになり、私たちの中に神への真の畏敬の念と崇拝が起こります。稲妻のように、神の言葉は人間に光と希望を与えます。東方の稲妻、つまり終わりの日の神の働きを受け入れた人々は皆、このことの証しすることができます。
さて、これをお読みになった皆さんは、東方閃電の起源は何かという問いへの明快な答えを得たことと思います。神は天地と万物の創造主です。人間はサタンによって堕落したため、神は人間を救う働きを始められました。神は全宇宙のすべての人々が神の御業を見、あらゆる宗教がひとつになり創造主を礼拝することを望んでおられます。そうすれば神は、神の出現を真に求め、その足跡をたどるすべての人に清さと救いを達成させてくださいます。神は御心に従う人々を神の国に連れて行き、神と共に憩わせてくださいます。ですから、真に神を信じ、主イエスの再臨をしきりに待ち望む兄弟姉妹の皆さん一人ひとりが宗教的観念を退け、真の道を調べるべきです。真の道に盲目的に反対する噂に耳を貸さないでください。それは終わりの日には神の救いを失う結果になるからです。私たちは神の働きの歩みに足取りを合わせ、神の足跡を密接にたどらなければなりません。これが最終的に神の救いを得て、神によって神の国に連れて行っていただく唯一の方法なのです。
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