クリスチャンの証し-現代のパリサイ人に道を塞がせてはいけません

霊的な戦いにおいて識別することを学ぶ

 その後、牧師はこうも言いました、「全能神教会は主イエス様が肉となって再臨されたと証言している。そんなことは不可能です。聖書にははっきりとこう書かれているのです、『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(黙示録 1:7)。 従って、主は世の終わりに雲の上から再臨なさるに違いないのです。」彼のこの言葉を聞いた後、私は兄弟ヂャンが私と交流してくれた時に私たちがこの節について理解し、知り得たことについて考えました。従い、私は彼らにこう言いました、「私たちが神の働きをこの節の文字どおりの意味だけで定義してしまうのは不適切です。実際には、人の子の来臨を言及している箇所が多く存在しています。これはその1例です、『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。』(ルカによる福音書17:24)。『見よ、わたしは盗人のように来る。』(黙示録16:15)。これらの節は全てが人の子の来臨について触れています。人の子の言及があるので、それは受肉されたキリスト様を指しているに違いありません。」牧師リーが割り込んでこう言いました、「人の子とは主イエス様のことを指しているのです。」これに私は言いました、「これが主イエス・キリスト様を指しているのであれば、主イエス様が既に受肉されて贖いの働きを成就なされた後にどうして、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』 (ルカによる福音書 17:25)。などということが言えましょうか?これからも分かるように、これは世の終わりに2度目の受肉をされた神を指しているのです。世の終わりに再臨された主が、肉としてではなく、霊的な御姿をお見せになるのなら、言うまでもなく主が多くの苦しみを強いられること、ましては現世代から拒まれることなどあり得ません。」この後は、私が彼らとどのように話をしても、彼らは聞く耳を持ってくれず、真理を調べもせず、依然として聖書の表面的な意味を固執していました。

 この時、私は、彼らは間違いなく再臨される主を心待ちにしている人たちではないことを明白に知りました。私は神の御言葉のこの節のことを考えました、「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。」(「真理の追求のみが真の神への信仰」より)神の御言葉が明らかにされることは全てが真実です。聖書には、人の子が来臨すること、そして主が盗人のように来臨されることを予測する箇所がたくさんあります。牧師と長老たちはその全員が神学校を卒業し、聖書を極め、長年に渡って主に仕えてきています。しかしながら、彼らは聖書にある預言の真義を読み取ることができないのです。彼らは神を信仰していながら、聖書の表面的な意味を学ぶことにしか集中しておらず、人々から尊敬されたいがために、神学理論を身に付けて自己顕示しているだけだということが分かります。これ故に、彼らは聖書を暗記し、長年に渡って説教し、働いてきているにもかかわらず、神を全く理解していないだけでなく、主イエス様が再臨される時に、宗教的な観念を固執することで神の働きに制限を課してしまうのです。彼らは正に盲目に人々を導く人たちなのです。


 ついに、往生しない私を見た牧師リーは、同僚たちの前で立腹してこう言いました、「私が教会を代表して結論を発表します。今後、あなたの教会における奉仕活動全てを中止します。これについて、自宅で落ち着いて慎重に考えなさい。」その瞬間、私は心が痛み、滴り落ちる涙を抑えられませんでした。私が悲しかったのは彼らが私の奉仕活動を中止したからではなく、長い間牧師リーと仲良くしていたにもかかわらず、そして彼は表面的にはとても敬けんで、主のために最善を尽くし働いていたように見えたにもかかわらず、彼らは私が真の道を調べていたことだけを理由に私を責め立て、私を見捨てたことが理由でした。彼らは信仰者たちに説教をして、主が来臨されるのを待っているようにとずっと言っていたのです。今、主は肉として再臨されておられるのに、彼らは神の終末の働きを見い出すことも、調べることもしていません。それどころか、彼らは真の道を調べる人々を妨害し、非難しているのです。この現状をふまえ、私は思わず主イエス様がパリサイ人たちを非難するために仰ったこの御言葉について考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」 (マタイによる福音書23:27)。当時のパリサイ人たちを振り返ってみてください。彼らは頻繁に礼拝堂で信仰者たちに聖書の説明をし、人々の前で祈り、聖書の規定によって他の人たちに有罪を宣告していました。表面的には、彼らは聖書に従い、とても敬けんな人たちであったように見えました。しかし、彼らは神の御言葉を実践して神の御命令に従う代わりに、宗教的儀式を行い、宗教上の規則に従うことだけに留意していました。彼らの振る舞いと行動は神の御心と御要求とは逆の方向に向かっていたのです。これがパリサイ人たちの偽善行為の本質であり、神に対する抵抗だったのです。それでは現代の牧師と長老たちに注目を戻しましょう。彼らは聖書に盲目な信念を注ぎ、それを敬い、称賛しています。彼らは宗教的儀式の種類、日常の宗教的業務と朝課に参加すること、パンをちぎり配ること、聖餐式に参加すること等にしか集中していません。彼らは信仰者たちに謙虚さ、辛抱強さ、敬けんさ、そして愛を説くことだけに重点を置いています。しかし、実際には、彼らは神を愛したり、神に従ってもいなければ、神を敬う心など全く持っていないのです。彼らは働いて説教をする時、聖書に関する知識と神学理論を固執し、それらを詳しく解説することしか重要視していません。主の御言葉の内容を実践して体験することや、神の御命令と御要望に従うにはどうすれば良いのかということになると、彼らはこれらを求ることも、探求することもなく、これらを実践して、これらに従うように人々を導きもしないのです。彼らは自己顕著するために、そして自分達が出生するために働き、人々に自分たちを尊敬して、敬うように仕向けているのです。

障害を踏み越え、全能神に従う

 後に、私は、私と共に全能神の終末の働きを受け入れた姉妹も牧師とその同僚たちから非難を受け、教会から除名されていたことを知りました。牧師と長老たちはまた教会を完全に封鎖して、ここ2年の間に教会の集会に参加した信仰者の中に全能神教会から来た者がいないかどうかを知るための調査を実施しました。さらに、毎週日曜日の午後には、牧師が教会内で全能神教会対抗を唱えるようにもなりました。私はこの知らせを聞いて激怒しました。教会の中にはまだ主を心から信仰し、主の再臨を強く待ち望んでいる兄弟姉妹たちが何人かいました。しかしながら、彼らは全員がと当時はこれら偽善的な牧師と長老によって束縛され、コントロールされた状態にあり、真の道を調べる機会が全くありませんでした。私はこう考えていると懸念に駆られました。そして、私は主イエス様のこの御言葉のことを考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」 (マタイによる福音書 23:13)。主イエス様が来臨され、説教された時、パリサイ人たちは主イエス様の御言葉には権威と力があることをはっきりと分かっていました。彼らは主イエス様の御言葉を求めることも、調査することもせず、その代わりに、主イエス様は悪霊を払拭するために悪魔の王子を頼りにしているなどと言いながら悪意をもって主イエス様を非難し、中傷することで、聖霊に対する冒とくの罪を犯し、神の性質を深刻に害したのです。パリサイ人は自ら主イエス様を冒涜し、非難しただけでなく、信仰者たちを駆り立て、欺くことで神に抵抗させ、神を非難させたのです。その結果、彼らは主からの御救いを逃し、パリサイ人の副葬品や犠牲者となってしまったのです。この牧師と長老たちの行為は当時のパリサイ人のものともはや同じなのです。人々が主イエス様の再臨に関する福音を広めると、彼らは教会を封鎖して信仰者が真の道について調べることを妨げるのです。これはこの人たちは、人類に対して天国への道を閉じ、自らがはいることもなければ、他人にもはいらせないという人々であるということを示していないでしょうか?しかし、私が一番理解に苦しんでいるのは、この牧師と長老たちはパリサイ人は主イエス様に抵抗していたことを明らかに分かっているにもかかわらず、どうしてパリサイ人の道を歩んでいるのかということです。どうして彼らはこんなに必死になって神の新しい働きに抵抗し、それを有罪扱いするのでしょうか?

 その後、私は神のこの御言葉を目にしました、「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を朗読するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より)。神の御言葉を読み、そして自分の個人的な体験により、私は宗教界における牧師と長老たちの本性を見極めました。彼らは正に障害物であり、神を信仰するという旗印の下に神に反抗し、人々が神を信仰するのを妨げるキリストの敵なのです。名目上、彼らは教会で兄弟姉妹たちを育てているということになっています。しかし、実際には、彼らは信仰者たちがいのちの成長を遂げることなど全く気に掛けていないのです。信仰者たちの信念と愛は冷めてしまい、それと同時に彼らは否定的かつ弱気にもなってしまいました。今回のケースについて言うと、牧師と長老たちは信仰者たちに真理を求めたり、聖霊の働きが宿る教会を見つけに行くように導いたりもせず、むしろ信仰者たちを厳重な管理下に置いているのです。特に、全能神が人々にいのちを備えようと真理をお示しになる時、彼らはそれを調査せず、受け入れもせず、代わりにありとあらゆる方法で真の道に反抗し、それを非難し、信仰者たちが真の道を調査するのを妨害するのです。彼らは信仰者が全能神教会にいる人々と連絡を取ることや、全能神の御言葉を読むことを許しません。彼らは自分たちの地位と生活のために、終末の時代における神の働きについてあちこちでうわさを流し、神の働きを中傷し、非難するのです。牧師と長老たちの振る舞いと行動全ては神に抵抗するものではないでしょうか?彼らは主イエス様が仰る悪の従者、もしくは現代のパリサイ人と言えないでしょうか?彼らは可能な限り、信仰者が世の終わりの神の御救いを受け入れることを邪魔するのです。彼らは私たちを地獄に向って引き寄せ、神の終末の御救いを授かる機会を逃させようとしているのです。これらも分かるように、彼らは人類の魂をむさぼり食う悪魔で、羊の皮を被った狼なのです。私は、牧師と長老たちの持つ真理を嫌い神に抵抗する本性と本質を見極めた後、彼らを心の底から嫌い、拒絶し、これ以上彼らに束縛されることはなくなりました。

 私は新しい教会では奉仕活動の全てを中止されられましたが、今現在は全能神教会で自分の本分を尽くしています。私は兄弟姉妹たちと頻繁に集まり、そして自分の本分を尽くすことで以前よりも価値があり、有意義な生活を送っていると感じています。神様、どうもありがとうございます。私はついに天国につながる道に置かれた障害を乗り越え、神の御許にはいることができたのです。私は神を従う過程において、神に満足していただき、神の御心を和ませることに精一杯努力いたします。全ての栄光、全能神にあれ!アーメン!

祈りの園

祈りの園は、経験を分かち合うにせよ、啓きがあるにせよ、私たちは皆神様の前に来て、私たちの神様に祈るべきです。こちらはあなたのディボーションする最も静かなところです。

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